妖精さん【短編小説】
それはなんでもない、ただの日曜日であった。
どこかの研究所が人々に幻覚を見せる装置を開発したわけでもなければ、どこかの滅びたはずの古代文明が息を吹き返して世界を不可思議な力で覆ったのでもなかった。
世界を平均して眺めてみれば、なんてことない、ただの日曜日。
しかしその日を境にして、世界には妖精が現れるようになった。
その姿は、子供の純粋な瞳にのみ映る。
日曜日に自分の五歳になる息子を公園で遊ばせていたY氏の話をしよう。
彼は休日の麗らかな午後、ベンチで心地よい日に当たりながら、砂場で無邪気に城を作る自分の息子をぼんやりと眺めていた。
最初は一人で砂をバケツに入れてはひっくり返しているだけの息子であったが、やがて彼は、幼稚園の友達とおしゃべりするように口を動かし始めた。
Y氏は最初は気にもしなかったが、時間が経っても、相変わらず、まるでそこに人がいるように会話をする息子の姿をいよいよ不審に思って近寄った。
「どうしたんだい、坊や。そこには誰もいないよ」
しかし坊やは自分の青色のバケツのそばを指差した。
「ここに、いるよ」
Y氏にはなにも見えなかった。彼は息子がそういう架空の人物を作り出すごっこ遊びをしているのだと思った。
「ようし、坊や。そういう遊びならパパも混ぜてくれ。どんな人を想像してるんだい?」
「ちがうよ、ここに、いるんだよ。このくらいでね、変な帽子をかぶった、小さいのが」
そう言って彼が手で表したサイズは、Y氏の手のひらよりも小さかった。Y氏の脳裏には、自分が子供の頃に絵本で見た妖精の姿が思い浮かんだ。
「そうかぁ、坊やは、妖精さんが見えるのかい」
Y氏はその日、息子が妖精を見たことを、ただの子供の妄想くらいにしか思わなかった。
次にS夫人の話をしよう。
S夫人はその日、自宅のリビングで、幼稚園に通う娘と一緒にくつろいでいた。
特に見たい番組があるわけでもなく、ただただ暇にあかせてテレビを眺めていた。娘はお行儀よく座って、最近買ってもらったピーターパンの絵本を読んでいる。
お昼のニュースに差し掛かったあたりで、本から顔を上げた娘が、いきなり、「ピーターパン!」とテレビの画面を指差して叫んだ。
S夫人は娘の指差す方向を見るが、テレビの中ではリポーターが生放送で美味しそうな食べ物を紹介しているだけで、妖精らしきものは何も見えなかった。
「ママには、ピーターパン見えないなぁ」
しかし娘は興奮冷めやらぬ口調でテレビの中のピーターパンを主張し続けた。どうせ何か見間違えていたのだろうと思っていたS夫人であったが、いつまでも娘がテレビ画面を見てピーターパン、ピーターパンと言い続けるので、彼女は少し怖くなった。
「ああ、だいじょうぶかしら。私の娘が、変なものを見るようになってしまった……。一度、お医者さんに診てもらったほうがいいのかもしれないわ……」
S夫人はその日、娘が妖精を見たことを、精神かなにかの病気だと思って、病院に連れて行った。
D氏はとあるテレビ局でニュースキャスターを務めていた。
彼には子供がいない。どころか結婚もしていない。だから、最近世界に現れ始めた妖精たちについては、毎日読み上げる記事に関わる事柄ではあるけれど、身近な問題だとは言えなかった。
彼はその日の夕方も、妖精についてのニュースを読み上げていた。世界各国の研究者が一丸となって調査をしているが、未だ妖精については何一つわからないという残念なニュースだ。
妖精関連のニュースはまだ後ろに山ほど控えている。
妖精について不信感を持つ大人たちの悩み特集、妖精がもしかすると道路に子供を誘い交通事故が増えるのではないかという専門家の意見、「妖精と戯れる我が子」という視聴者参加型のコーナーなど。
D氏はうんざりするほどに妖精関連のニュースを読み上げた。妖精とあらゆる方面から関わる大人たちの姿を見てきた。
しかし、D氏は苦笑いを浮かべないわけにはいかなかった。なぜなら彼が仕事上真剣になって語らねばならない妖精の存在について、彼は知覚どころか認識すらできなかったのだから。
今、彼の眼にはただ一人ではしゃいでいる子供を映した映像だけが見えている。
妖精が世界に現れ始めたその日から、大人たちはその現象について考えを巡らし、議論をした。
まったく、知覚も認識も及びもしない事柄について。
時折、己のやっていることに無意味さを感じて、溜息なんかを吐きながら。